Oono clinic

ごあいさつ

院長からのメッセージ

院長大野 貴史
安心と安全は赤ちゃんへの最初のプレゼント

 当院の医療理念は「安心と安全」です。三代目院長の鹿沼での開業から100有余年となり、前院長の喬三が産科・婦人科を標榜してから、地域の子どもたちの多くがここで産声をあげました。
今では、鹿沼市唯一となった分娩が可能な産科婦人科の専門医療機関として、さらなる重責を担う覚悟でおります。私は医師として、リスクに適切に対応し、患者の皆さまと良好な信頼関係を築き、女性を支える医療を日々心がけてまいります。

 「安心安全」は特別なことではありません。
ごく基本的なことを100%確実に提供することなのです。
しかし、この基本は毎日の丁寧で安全な医療の積み重ね。医師自らがすべてのお産に立ち会い、助産師とともに妊産婦さんの安心をバックアップしています。
医術一筋で五代目になる私の代になっても、その理念は変わらず受け継いでいきます。

 クリニックは最新の技術を取り入れ、新しい設備を整えて、皆さまが快適に過ごせるように準備いたしました。
希望の光である「赤ちゃん」に、輝かしい人生の始まりへの最初のプレゼント。
「安全」な出産に力を尽くす私たちに、「安心」を委ねてください。当院のスタッフ全員、全力であなたをサポートします。

院長 大野 貴史
自治医科大学産科婦人科、
日光市民病院(旧・古河記念病院)を経て、
上都賀総合病院産婦人科部長として勤務。
2006年、大野医院院長就任。

助産師からのメッセージ

助産師 大野 みな子
私たちの願いはあなたのすこやかな生活です

 女性にとって出産はライフステージの大きなイベント。女性が本来持っている、育む力と産む力を最大限に発揮できるように、私たち助産師がお手伝いいたします。
新しい命を迎えるお母さんとお父さんの不安や心配を少しでも取り除き、幸福に満ちた瞬間を迎えられることは、私たちにとっても最高のプレゼントなのです。

 心身の不調に悩む女性には、静かに温かく最適な医療を施します。私たちスタッフは、全員があなたの味方。
体も心も安心して委ねていただける最善の医療を提供いたします。

 あなたの健康のために尽くし、ご家族とともにすこやかに過ごせることが、私たちスタッフ全員の願い。
あなたの一生に伴走し、頼れるパートナーとして寄り添ってまいります。
私たちを身近な相談相手として、お気軽にお立ち寄りください。

助産師 大野 みな子
アドバンス助産師
産後ケア実務助産師研修修了
新生児蘇生法Aコース修了
日本母体救命システムベーシックコース修了

産科婦人科クリニック
大野医院沿革

 当院は、一般の産科・婦人科治療はもちろん、無痛分娩や不妊相談にも対応しております。また、上都賀総合病院や自治医科大学付属病院などとも連携し必要に応じて、高次医療機関への紹介も行なっております。新しい命の誕生とすこやかな成長を見守るため、きめ細やかな医療とサービスをご提供できるようこれからも努めてまいります。初めての方もお気兼ねなくご来院ください。

 当院は、明治44年に診療所として開業した100年以上の歴史を持つクリニックです。鹿沼市や宇都宮市西部、栃木市、日光市、壬生町などの上都賀地域の皆さまとともに歩んでまいりました。

 当院の祖にあたる大野龍玄は、天保元年(1830)、 黒羽藩士・新江牛王の長男・儀右衛門の子として生まれました。儀右衛門は蛭田村(現湯津上村)の大野家を継ぎ、蛭田村が旗本・加賀爪家の知行所であったことから、同家の用人格となりました。龍玄は漢籍を学び、それにもまして武技を好みましたが、左手を怪我したことから、父と相談して医をもって世に出ようと決心いたしました。 龍玄は、弘化元年(1844)に江戸へ出て、漢方医術を学び、刻苦勉学すること数年、業をなして帰郷します。嘉永2年(1849)には父はすでになく、同5年に蛭田村の隣、福原村 (現大田原市)で医を開業することになりました。遠近より治療に来る者多く、また、知行主那須氏(福原氏)に招かれ、中小姓格で医員となりました。 安政4年(1857)に、伊東玄朴・大槻俊斎らによって、江戸・神田に種痘所が設立されると、龍玄は、翌5年2月、命を受けて種痘研究のために再び江戸に行き、元治元年(1864)、幕府の医学所(種痘所が改組改称)より種痘医の免状を得て帰り、種痘術を領内に施すことになります。 さらに、明治2年(1869)に東京種痘館より証書を受け、その年に「種痘法館規則」が公布されたため、普及方が地方府県に通達されています。  翌年には宇都宮町に種痘所が設置されたのを始めとし、次々と栃木県下に種痘所が設置されると、龍玄は県の職員としてその政策をおし進めました。画期的であった栃木県における種痘所の普及に尽力したのです。

 二代目である龍玄の長男・昇仙はすでに一家をなし、鹿沼で医院を開業し、名声を博して上都賀開業医会会長をしていました。明治26年(1893)、昇仙は父・龍玄を鹿沼に迎え、同居することになりました。長い間、同じ医師とはいいながら、別の道を歩んだ父に、子としての道、親孝行を尽くそうとしたのです。 その時、龍玄は63歳。その歳でもまだ、毎種痘期には奔走從事し、老いてますます盛んでありました。昇仙は、父の行状業績を世に顕わしたいと、明治31年、父生存中、鹿沼町上田町光明寺境内に高さ約1.7メートル、幅約0.9メートルの「大野龍玄寿蔵の碑」を建てました。撰文は第六代・上都賀郡長原近知です。その賛に曰くは 転禍為福 一志始終 成家済世 公私其功  左手の怪我という禍を転じ、武芸を諦めて医業一筋の志を貫き通し、大野家を大成し、種痘所の普及に貢献して世に尽し、公私にわたっての功績は大なるかなである、となっています。龍玄は、明治40年(1907)、77歳で天寿を全ういたしました。 昇仙は、『栃木県医襍録』に安政4年(1857)、鹿沼町の産とありますが、当時、父は福原村(現大田原市)で医家を開業していたので、福原の生れではないかと思われます。父の意もあって、早くから医学に志し、 明治11年(1878)に東京大学医学部に入り、別課医学全科を卒業し、同17年に内務省より医術開業免状を受けています。同16年布告の新制医師免許規則の施行により、医籍登録番号(全国一律)は第31号という若い番号で、県内では第一号に当るものであリました。  18年、鹿沼の地で開業します。中田町通り東側で、1階は久保町で最近まで営業していた菅又薬局で、2階を医院にしたといいます。最新の医学知識に精通し、その実技は衆目を集め、診療を請うもの門前市をなすといわれました。

 28年10月に、前年設立された上都賀開業医会の幹事長に就任しています。『栃木県医襍録』によると、昇仙は開業医会会長に就任とあり、累年再選とあります。28歳の若さでした。20年には、正式に上都賀開業医会会長の役名が使用され、同年、昇仙は儒学者林家の塾に入門しています。かつて昌平坂学問所(昌平黌)を主宰した林家は、 明治維新後に衰微し、家塾活動を地方に移していました。20年には鹿沼で26名の入門者を数えています。昇仙は一般教養を身につけるために、已から進んで入門を志願しました。

 23年には、東大医学部で一年先輩の県立宇都宮病院長・中山忠亮の要請と思われますが、同病院の医員も勤めることになり、さらに翌年には県知事の特選で、東大医科大学の国家医学講習科に入学しています。この講習科は22年に設置されたばかりで、衛生学・法医学・毒物学・精神病学・病体解剖式などの日本医制度に関する知識を教授する講座科目が設定されていました。

 昇仙は、25年に種痘監督医を嘱託されるなど、大日本私立衛生会・日本医学会・国家医学会・栃木県医学会・大日本医会などの会員・委員・常議員を務め、衛生公共事業などに関与しないものはなく、また、教育会などの諸会の役員・委員を兼務し、鍼治按摩研究会の講師を務め、上都賀第一の名医として盛名をはせました。26年に発足した上都賀郡医会は、初代会長は不明ですが、28年10月から34年7月まで、会長を務めています。

 33年に、鹿沼宿種痘創始者と言われた星野周益医院の跡地で、現大野医院の地に新築移転します。その年に医院を嗣いだ長男・政次が生まれました。

四代目 院長 大野 喬三

 なお、この正次の息子が先代の医院長である喬三です。喬三が昭和44年に産科・婦人科を開院し、現院長の貴史が2006年に跡を継いで現在に至ります。

参考資料 上都賀郡市医師会史